残業時間の削減議論に思うこと
このところ残業時間の削減が何かと話題になっています。
今朝の新聞に財務省と厚生労働省が経済対策の目玉として盛りこむ働き方改革の原案として
「残業時間に上限を設けるなどして長時間勤務を抑制する」という記事が出ていました。
また、先日は、小池百合子氏が都知事選出馬の記者会見で残業ゼロを目指すと話していました。
残業時間を短くすることはもちろん良いことではありますが、
残業時間削減の話になった時にいつも違和感を感じます。
それは、工場などのラインの仕事とは違って、日々の仕事量が一定ではない知的作業を
行う職種において時間ばかりに焦点を当てることが本当に正しいのかということ。
また、残業時間が減ることがゆとりのある生活とイコールになるのかということです。
これに関して、最近、とても納得感のある本を読みました。
長野慶太氏の「プロの残業術」という本。
長野氏は、ノー残業でゆとりのある社会を目指すというのは、
ゆとり教育の推進と同じ失敗を繰り返すだけだと警鐘を鳴らしています。
働いている社員自身が犠牲になる可能性があると。
その理由として2つあげています。
それが余計にストレスになることもあり得ます。
要は、労働時間が短くなれば労務問題が解決するというような
簡単な問題ではないということです。
どんどん激しくなっているということ。
ゆとり、精神的な安定というのは、本来、世の中が不況になろうと、どんな社会になろうとも
家族を養っていけるだけのスキルを獲得することで得られるのではないでしょうか。
そのためのスキルアップをすることが経済環境の中で必然となっているということです。
残業を少なくすることはもちろん良いことですが、その時間を何に使うべきなのかについても
経済環境や労働者の市場価値という観点から考えること、伝えることが大事だと思います。
自由競争の中、ライバルに勝つためには、時には生産性を度外視して考え抜くことが求められますし、
効率化を実現すれば、高いレベルでさらなる効率化が求められます。
いろいろと新しいことを吸収し仕事力を高め、自ら仕事を創るくらいの力を得なければ、
これから先の日本でゆとりのある生活など実現しないのではないでしょうか。
高度経済成長期のように日本の経済がどんどん伸びるのであればいざ知らず、
市場が縮小し、グローバル化により国内だけでなく海外の企業とも競争しないと
いけない社会において、
働く時間が短い=ゆとりのある生活
というのは幻想のように思います。
そんな中、長野氏は悪い残業ではなく、良い残業をしろと言います。
明日の自分を創り上げる戦略性の高い残業、自分のための残業をしなさいと。
この意味がとてもよくわかります。生産性を上げ、労働時間を短くし、家族やプライベートの時間を大切にするというのはもちろん
大事なことですが、日本経済がどんな状況になっても食っていけるだけの力を身につけるために
今の会社で自らを磨くための残業をすることも大事なのではないかなあと感じました。
そんな力がついた時に、自分のペースで労働時間が調整できるようになるのではないかなあと。
もちろん、私は残業を強要したりしません。(たまにどうしても遅くなることはあるけど(笑))
残業をしたいと思ったときに、それをさせてあげられない会社にはなりたくないなあと思います。
仕事を通じて、厳しい社会を生き抜く力を身につけられるようにしてあげるのも
社会人の先輩としての役割なのかなあと思います。
残業時間の削減はOKですが、変な規制だけは作らないでほしいなあというのが本音ですね。